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2010/06/08(火)

【#77】あるパイオニアの死

 ちょうど前回のコラムを書き終えた頃、僕の元に突然の訃報が届きました。
 亡くなったのは、島野修さんという方。島野さんは現在のオリックスの前身、阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」・そしてオリックスの「ネッピー」を長年演じられてきた方なんですが、何よりも日本マスコット界の「パイオニア(開拓者)」として、日本のマスコット界ではかなり知られた存在だったのです。
 日本のマスコットの歴史はまだ30年余りですが、その起源については諸説あって未だはっきりしていません。ある説によると、それは1978年~79年頃のヤクルトであるとか、80年頃の西武のレオであるとか、または我がファイターズの初代マスコット「ギョロタン」であるとか…しかし、日本で初めて本当の「プロ」としてマスコットを演じたのが島野さんである事は、疑いのない事実です。

 島野さんについては、そのマスコット人生を中心に描いた『それゆけネッピー!プロ野球マスコットにかけたゆめ』という児童書が出版されており(僕もこの本を持ってます)、ご存知の方も多いと思うんですが、まずはその経歴を紹介したいと思います。
 島野さんはマスコットとしては異色の、元プロ野球選手。プロ入りは1968年、投手として巨人からドラフト1位指名という、華々しいものでした。しかし肩の故障などもあって、阪急に移籍したのち、目立った成績を残せないまま78年に現役を引退。その後打撃投手を経て一旦球界から身を引いたものの、ある日阪急の球団職員から「マスコットをやってみないか」という誘いを受けました。当初は島野さんの中にも「着ぐるみなんて…」という思いはあったそうですが、メジャーリーグのマスコットが生き生きと活躍しているビデオを見て、引き受ける決心をしたとの事です。
 そして81年4月、ブレービーとしてマスコットデビュー。他球団のマスコットも、テーマパークのキャラクターもまだ日本にはほとんど存在していない時代。島野さんは試行錯誤の中で、マスコットとしてのキャリアをスタートさせました。しかしそれから間もない頃、島野さんの経歴を紹介したある記事が新聞に掲載。それは「元ドラフト1位の、道化役への転落」といったネガティブな趣旨だった為、その後島野さんは球場で心ないファンからのヤジに悩まされるようになります。そんな事もあり、マスコットを続けるべきかどうか迷っていたある日、試合後立ち寄った球場近くの食堂で、偶然隣に座った野球観戦帰りの親子がブレービーの話を楽しそうにしていたのを耳にして、マスコットを続けていこうと決心した――というのは、あまりにも有名なエピソードです。
 その後も幾度かの大ケガなどを克服しながら出場を続け、91年にネッピーへの「変身」を経て、96年には日本のマスコットとして初めて1,000試合出場を達成。そして98年、通算1,175試合出場という記録とファンの心の中への記憶を残し、島野さんは18年間にわたるマスコット生活を終えたのです。

 僕もずっと前から、島野さんの名前は知っていました。この世界に入って間もなく、いろんなマスコットのパフォーマンスを勉強しようと全国の球場を見て回っていた頃、島野さんのネッピーが見たくてグリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)まで行った事も何度かあります。そこでまず感じたのは、動きが洗練されているなぁ、と。特に腕の使い方や、勝った時の喜びの表現方法とかは参考にさせてもらいましたね。今の僕の動きも、特にそこらへんは島野さんの影響を少なからず受けていると思います。
 その後実際に、島野さんとは何度か現場でお会いした事もありますが、その頃の島野さんは、マスコットの現役としては最晩年の時期。休憩時間中にちょっとしんどそうにしていた姿が、僕の中では何故か印象に残っています。その頃はまだ今ほど各キャラのいろんな個性が際立ってくる前で、アクロバット系のマスコットが最も注目を集めていた時代。島野さんは既に超ベテランの域に入っていて、自身が長年築き上げてきたスタイルやプライドもあったと思うんですが、それと当時の「流行」とのギャップの間で、一体どんな事を感じていたんだろう…と、今になっては思います。
 島野さんは引退後、職員として球団に残ったものの、数年前に体調を崩して退職されたと聞きました。その後しばらく近況を聞く機会がなかったんですが、一昨年京セラドームでオールスターが行われた際、オリックス球団の方から「島野さんの病状が芳しくないので、みんなでお見舞いのメッセージを贈ってほしい」という話があって、マスコット全員でビデオレターを撮影した事があったんです。そんなに体が悪かったのか…と心配はしていたんですが、まさかこんなに早く亡くなるとは思いもよりませんでした。

 今年は偶然なのか、小林繁コーチやオリックスの小瀬選手、巨人の木村拓也コーチなど、球界関係者で若くして亡くなる方の悲しいニュースが相次ぎますね…。島野さんにしてもまだ59歳、亡くなるにはあまりにも早過ぎる年齢です。亡くなった原因とマスコットの仕事との因果関係はわかりませんが、ひとつ確かに言えるのは、マスコットという仕事は物凄い激務だということ。体力的な負担は誰の目にも明らかだと思いますけど、それに加えて何万人という観客の前で毎試合パフォーマンスをするプレッシャーや、いろんな人達と直にふれ合い続けるという精神的ストレスも、かなり神経をすり減らす要因になるんです。
 動物の心臓が、一生のうちに脈打つ鼓動の数は決まっている――という説、皆さんも耳にした事はありませんか?つまり、鼓動の速い動物はその分長生きしない、と――。真偽のほどはわからないけれど、もしその話が本当ならば、僕らは相当心臓に負担をかけてるし、マスコットはみんな長生き出来ないね、なんて話を時々マスコット同士でするんです(^^;)。まぁそれはあくまで冗談半分ですけど、実際に大きな体で激しい運動を繰り返している相撲の力士なんかは、長生きしない方が少なくないですよね。よく取組直後にゼェゼェ言いながらインタビュー受けてる姿を目にしますけど、ちょっと僕らの姿とダブってしまうんです。
 しかし、それでも僕らがマスコットを続けたいのは、それだけたくさん良い思いをさせてもらっているから。グラウンド上でパフォーマンスして喝采を浴びた時の快感や、何よりもファンの皆さんとふれ合っている時のみんなの笑顔、それがあるからみんな辞められない。ある意味、マスコット達はみんな命を削りながら、お客さんに笑顔を分けているのかもしれないですね…。

 今でも残念ながら、世間一般的にはマスコットに対するいろんな偏見や無理解は多く残っています。でも島野さんがマスコットを始めた頃と比べたら、その認知度や人気が飛躍的にアップしたのも確か。今では当時とは比べ物にならないくらい情報網も発達して、食堂でたまたまファンと隣り合わせる偶然を待たなくても、パソコンのクリックひとつで、いつでも簡単に自分達に対する評価を知る事が出来る。――僕らは、つくづく良い時代に生きているんだな、と思います。だけどもし島野さんが健在だったら、今のマスコット事情をどう思っているんだろうか?――今回の訃報を聞いて、何だかそんな事を考えてしまいました。
 一般ウケするパフォーマンスというものは、時代と共に刻々と変化していく。僕らはただそればかりを追い求めて、どんな時代にもずっと変わらない、一番大切なものをおろそかにしてはいないだろうか?流行だとか人気だとかそんなものは、実は実体のない空虚なモノ。一番大切なもの――それは島野さんがマスコットに人生を賭ける大きなキッカケとなった、食堂で耳にした親子の会話とその笑顔、そこに全ての原点がある――僕は、そう思うんです。
 何の世界でもそうだけど、苦労して道を切り開いてくれた開拓者がいて、今の僕らがその道の上を突っ走る事が出来る。島野さんが築き上げてくれた、日本プロ野球マスコットの世界――僕らはその大切なものをきちんと守りながら、更にそれを発展させていく事が使命だと思って、これからも日々ファンと真摯に向き合っていきたい。島野さんの訃報に、そう心を新たにしました。

 ――謹んで、島野さんのご冥福をお祈りいたします。